映画『家族の軌跡 —3.11の記憶から—』

東松島市-3788

震災以降、茨城県から岩手県まで、行ったり来たりの暮らしが続いた。

どこの集落も港町も未来を予測できないほど破壊されたが、今は復旧や復興が進んでいる。カメラマンとして何ができるだろうか、誰しもが悩んだことを自分も考え続けた。

そんなとき、宮城県東松島市の小野駅前応急仮設住宅と出会った。ふと立ち寄ったことが、今後の大きな仕事につながっていくことは、そのとき予測もしていなかったことだ。

宮城県東松島市。海あり山ありの風光明媚な街だ。

石巻市と松島町の間にあるこの街も、2011年3月11日の東日本大震災で大きな被害を受けた。仙台から石巻の沿岸部の街を結ぶ仙石線も一部破壊され、その周辺の集落もほぼ壊滅状態だった。街を横断する国道45号線を津波は越えていった。

死者は千人を越え、未だ行方不明者も数多くいる。

小野駅前応急仮設住宅には、同じ街に暮らしていながら、初めて出会った人たちが寄り添っている。

急がず、人との関係を大切にしながら、待つことを大切にしてきた取材だった。

記憶が曖昧になってくる時期と、話を聞けそうな時期が重なり合ったとき、本格的に動き始めた。話を聞きながら、この時期のこの言葉を止めておきたいと無性に感じ、スチールカメラの他にムービーカメラも回し始めた。

夫婦でともに流され、夫の背広を握り締めながら、自分だけが助かった妻が語る。

納屋に風呂敷を取りに行っただけのことで、亡くなってしまった妻の遺影を見つめる夫。

瓦礫の分別作業をしながら、行方不明の娘に花を手向ける母。しかし娘の名前が間違って掘られている供養塔に悔やむ。存在の証が何もないそんなとき、行方不明だった娘の免許書が警察署から届いた。

市内のとある居酒屋。常連客同士が賑やかに楽しそうに飲んでいながらも、震災の現実は、つねに根底にあった。「みんないろいろ持っているんだよ!」

本音が出てくる。「新しい家が建っても、それは私たちの家じゃないって!元に帰りたい!」と涙を流す。昔から暮らしていた場所、近所付き合い、匂いや風景や行事、その記憶を思い出すほど、震災の傷跡はあまりに深いものだ。

介護施設で働く母を亡くした幼い二人の兄妹。祖父母が育てる現実だ。

二回目の子育てね!と陽気に振舞う祖母だが、その状況は苦しくもつらい日々だ。

「ママの声が聞きたい!」と弟が祖父に抱きつく。甘えたい盛りに「ママ」はいない。

「ママへ」と姉が自分の夢を手紙にしたためる。

毎週、「ママ」が眠るお墓に行く。家族は亡くなった「ママ」を軸に暮らしている。

自宅で母、親戚が亡くなり、外出していた妻も自宅に帰る道中で亡くなった。ただ一人残された夫は、食事を近所の人に作ってもらい、取りにいく暮らし。

「あの世でも今までと同じように、幸せな暮らしであるように」と毎朝、仏壇に頭を下げる。

東日本大震災 ©oonishi-2-3

復旧や復興という言葉が、政治家やメディアが発信する中、街はたしかに大きく変わっていった。新しい家が立ち並び、日常を取り戻しつつあった。

しかしその急速な変貌に伴うことなく、人の心に大きな変化を感じることがなかった。

やるせなく、足踏みをした状態が続き、でも前に進まなくてはならない健気な姿があったが、それを他人には見せようとはしなかった。

震災の後遺症は、僕が思っている以上に深く、そして重たいものだった。

生き残った自分をせめる。あの一瞬の判断を後悔し続ける。

今も失った家族の軌跡をさまよいながら、日々淡々と時を刻む。

大西暢夫